沖お釈迦講
2022.6.15

 現在の多賀城市桜木地区はかつて、中谷地・宮内・原という3地区に分かれ、総称して沖区と呼ばれていました。太平洋戦争末期の昭和17(1942)年、沖区の住民たちは多賀城海軍工廠の建設に伴い、強制的ともいえる立退きを余儀なくされました。『多賀城市史』には、海軍側から移転を迫られ、警察官数十人が囲む中「反対すれば非国民と言われるし、半強制的に調印させられた」「土葬したばかりのおばあちゃんの遺体を掘り出した」などの当時の住民の声が収録されています。(石澤友隆『戦争のころ 仙台、宮城』河北新報出版センター、2020年。)集落丸ごと、神社や墓地も含めての大がかりな引越しで、住民たちは先祖代々の土地を手放す苦しみを味わいました。

 さらに遡ること今から約170年前、江戸時代末の安政期の沖区では、16名の女性たちによる念仏講が営まれていました。念仏講とは念仏を唱えて村内安全や五穀豊穣を祈る講(地域社会においてさまざまな目的で結ばれた集団)のことですが、農家の妻である女性たちが農作業の合間に茶菓子を持ち寄り談笑する、今で言う「お茶っこ」のような集まりでもあったようです。その沖の念仏講では安政2(1855)年に水戸の絵師茨木龍道梅雪から買い求めた「涅槃図」を、毎年お釈迦様が入滅した2月15日に拝んでいました。この涅槃図は前述の海軍工廠建設による集団移転の大混乱の中で一時所在がわからなくなりましたが、昭和30年代に探し出され、女性たちの子孫14名によって、昭和38(1963)年の新暦2月15日に「沖お釈迦講」が組織され、以来毎年御開帳されてきました。しかし平成23(2011)年3月11日の東日本大震災により再び大混乱がおき、翌24年に苦渋の決断のもと休止となり、涅槃図やその他の資料を西園寺が一時お預かりすることとなったのでした。

 そして休止からちょうど10年が経った今年、講員の方からこの区切りの年に一度御開帳をしたいとのお声があり、本来の涅槃会の日は過ぎてしまいましたが、去る6月12日、10年ぶりに沖お釈迦講が営まれる運びとなりました。当日は沖お釈迦講発起人、田口精氏の子孫である田口俊男花園会長を代表世話人とし、9名の講員の方々が参加され、涅槃図を前に住職と共にお勤めを行いました。涅槃図は170年前のものとは思えないほど保存状態が良く、波乱の時代をくぐり抜け、代々大切に受け継がれてきたことが窺えます。

 その後の直会(なおらい)では、懸案であった今後のお釈迦講についての話し合いがなされました。時代の趨勢もあり、諸般の事情で継続が難しくなったことから、残念ながら今回をもって沖お釈迦講は解散することとなりました。涅槃図は今後は地域の貴重な文化財として多賀城市の文化財課にわたり、しかるべき場所で保管されることとなります。ひとつの歴史の終わりを見るようで何とも複雑な思いがしますが、この涅槃図とさまざまな苦労を共にしてきたご子孫の方々にとっても本意無いことであったでしょう。皆さんもこの涅槃図をいつかどこかで目にする機会があるかもしれません。その時は是非、この沖のお釈迦講の話を思い出して頂ければと思います。

<参考文献>

石澤友隆『戦争のころ 仙台、宮城』河北新報出版センター、2020年。

 

*涅槃図(ねはんず)とは、お釈迦様が沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で入滅(=亡くなること)する情景を描いた図。周りに諸菩薩や仏弟子、鳥獣など一切の生類が集まり、悲嘆にくれるさまが描かれる。陰暦2月15日とされ、この日は涅槃図を掲げ法要が営まれる。

 

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