今月の禅語

2022.8.1
其の三七
朝聞道夕死可也 あしたにみちをきかば ゆうべにしすともかなり

この世の真理を求めて今まで生きてきました。それが人生の目的なのですから。

 若き頃より発心(ほっしん)した修行僧が道を求めて幾星霜(いくせいそう)。いつしか年老いても、まだ修行の旅を続けています。と、そこに突然、金色に輝く仏教の教義のシンボルである法輪が!頭にこつんと当たりました。

 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」。ある朝、真理を聞くことができたなら、その夕方に死んでもかまいません。それが人生の目的なのですから。

 私たちはこうして奇跡的に生まれてきたのですから、それほどの価値のあるものを力尽きるその日まで、ひたすらに求めて生きようではありませんか。インターネットに携帯電話、まわりには様々な情報があふれています。それらを眺めるのに忙しく、ただ漫然と過ごしていては、一度きりの人生を無駄に過ごしてしまうことになりかねません。

 「禅」とは「禅那(ぜんな)=静かに思う」。人生いかに生きるべきか。人間いかにあるべきか。静かに思い、そして行動することが肝心です。

 

出典:『論語』「里仁篇」

子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。

 

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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