今月の禅語

2020.5.1
其の十一
廓然無聖 かくねんむしょう

カラーっとして実に爽やかな気持ちです。不安もありません。ありがたいものもありません。

 カラリとしていて、どのような価値観にもとらわれがないこと。

 禅宗初祖の達磨大師がインドから中国にやって来た時、梁(りょう)の武帝に会いました。武帝は「仏心天子」とも呼ばれるほどあつく仏教に帰依した皇帝です。その武帝が達磨に向かって「私にはどのような功徳が有るだろうか」と尋ねた時、達磨大師はキッパリと「功徳などありません」と答えられました(二「無功徳」参照)。鼻柱をへし折られた武帝がさらに「それなら仏法の最も大切な真理(聖諦第一義=しょうたいだいいちぎ)とは何か」と尋ねたところ、達磨大師は「廓然無聖(かくねんむしょう)」と答えられたのです。「廓然」とは、雲一つないカラリと晴れわたった空のようにサッパリとしてなんのとらわれもないことの形容で、「無聖」とは、聖なる崇高な真理などないということです。何か崇高な価値観を立ててそれを概念化し、聖だ凡だととらわれている武帝に対し、達磨大師は、そういった価値づけを断ち切ってみせました。しかし、実はそれが聖諦第一義にほかならないことを、武帝は気づかなかったようです。

 

出典:『碧眼録』第一則

梁武帝、達磨大師に問う、如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

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