今月の禅語

2020.11.1
其の十七
灰頭土面 かいとうどめん

灰まみれ、泥だらけになって働く。それだけ。ぶざまな姿は美しい。

 頭には灰をかぶり、顔は泥だらけになりながら、悩める人たちを救済するために走り回ること。たとえお悟りを開いたからといって、坐禅を組んで法を説いていればよいというのではありません。本当に苦しむ人を救うためには、自らが出向いて行ってその苦しみを共にし、一緒に歩んで行くことで、初めてその人の気持ちも知るところとなり、真に救うことができるのです。仏教ではこれを「慈悲の心」といい、その行いを「菩薩行(ぼさつぎょう)」といいますが、この行いこそが「灰頭土面(かいとうどめん)」にあらわされているのです。

 また、『十牛図』の「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」の頌(じゅ=徳や教えを褒めたたえる詩)に「土を抹(まぶ)し灰を塗って笑い腮(あぎと)に満つ」とありますが、正に「灰頭土面」となって苦しみを共にした時こそ、心が豊かになり苦しみや悲しみを超えたところで笑顔になってくるというのです。この時こそ、ただ楽しいとかうれしいとかいうだけの笑顔ではなく、心から真の笑顔というものがあらわれてくるのです。ぶざまな姿をおそれてはいけません。

出典:『碧眼録』第四三則

若し不出世なれば雲霄を目視す。若し出世なれば便ち灰頭土面。

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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