今月の禅語

2022.12.1
其の四一
一日不作一日不食 いちじつなさざれば いちじつくらわず

働かなかったら、食べません。自分で決めたことです。さあ明日はしっかり働こう。

一日働かなかったら、一日食べません。あくまで今、ここ、自分の問題。

よく比較されるのが、聖書に説かれる「働かざるもの【食うべからず】」と、百丈禅師(ひゃくじょうぜんじ)が説く「一日なさざれば【一日食らわず】」との違いです。前者は「お前は働いていないから食べてはいけない」と神が説かれたもので、後者は「私は働かなかったので食べません」と自分の心から出てくるものです。どちらがより優れている、どちらが正しい、ということではありません。

しかし、両者には大きな違いがあります。禅の「一日食らわず」は「私は働かなかったので食べません」と、あくまで自律的・自発的なものです。規則を守らなくてはならないからそれに従うというものではありません。私たちの心から出てくる、守らずにはいられないという、内からあふれ出る願いに支えられたものなのです。

自分自身の強い覚悟。ここが禅の特色といえようかと思います。

出典:『五燈会元』巻三「洪州百丈山懐海禅師」条

師、凡そ作務の労を執るに、必ず衆に先んず。主者、忍びず。密かに作具を収めて之に息まんことを請う。師曰く、吾、徳無し。争でか合に人を労すべき。既に徧(あまね)く作具を獲むるも獲ず、亦た飡を忘ず。 故に、「一日作さざれば、一日食らわず」の語有って、寰宇(かんう)に流播(るは)す。

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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