今月の禅語

2021.6.2
其の二四
好事不如無 こうじも なきにしかず

よいことがあれば必ず悪いこともある。どちらもないのが本当の好事。

 思いがけない幸運に恵まれて、やったやったと喜んだ経験はおありでしょうか。でもそんなものはそうそう期待もできませんし、長続きもしません。

 それに「好事(こうじ)」があれば「悪事」があります。「禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし」と言って、善いことの次には悪いことが起きる、油断しているととんでもない目に遭うぞと戒める言葉もあります。

 もともと善悪の判断や、これは良いことでこれは悪いこと、という感情はものごとへの執著(しゅうじゃく)であり、煩悩に過ぎないのです。好し悪しなどは、とどのつまり外界のさざ波に過ぎません。そんなつまらないことに一喜一憂しているようでは、また事の是非善悪にとらわれているようでは駄目だ、という意味です。

 偶然訪れる幸せなどを期待してはいけません。自分を見失うだけです。何事もなく過ごすことができることの幸せに気づきましょう。

 

出典:『碧巌録』第八六則

雲門垂語して云く、人人、尽く光明の在る有り。看る時は見えず、暗昏昏たり。作麼生(そもさん)か是れ諸人の光明。自ら代って云く、厨庫、三門。又た云く、好事は無きに如かず。

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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