今月の禅語

2021.5.1
其の二三
歩歩清風起 ほぼ せいふうおこる

爽やかな風に吹かれて、軽やかな心で歩みます。世界があなたを祝福しています。

 一つ一つの歩みの中に、清らかな風が起こるという意味です。この歩みとは単に「歩く」ということだけをあらわしているのではありません。仏教の説く戒律や規則を守りながら行う仏道修行の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)の中には、すべてに清らかさがあり、その行いにこそ清らかな風が吹いてくるのです。

 もし、心の中に怠けようとする思いがある時には、埃しか舞い上がらないでしょう。しかし、心の安らぎを求めて一心に修行する行動の中には、たとえ未だ悟りを得ていなくても清らかな風が含まれています。

 そしてその風は自分で感じるものではなく、自分を取りまく人たちが感じている風なのです。ここにこそ、その人がどういう生き方をしているかが垣間見られるのであるといえます。さて、自分が通り過ぎた後には、どんな風が吹くでしょうか。あの人といると心安らぐ。そう言われる人になりたいですね。

出典:『大応国師語録』

僧云く、『肅宗皇帝、忠国師に問う、如何なるか是れ十身調御』を記得す。師(南浦紹明)云く、檀越、毘盧頂上を踏んで行く。此の意、如何。師云く、歩歩、清風起る。

 

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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