今月の禅語

2021.9.1
其の二六
大道透長安 だいどう ちょうあんにとおる

歩んでいるすべての道がそのまま心のふるさとにつながっています。

 あれまあ、道に迷いましたか。でも道は必ずどこかにつながっていますから大丈夫。

 大道は長安に通じている、というこの言葉、「透」はまた「通」とも書きます。趙州(じょうしゅう)和尚に弟子が尋ねます、「道とはなんですか」。師が応えます、「垣根の外にあるぞ」。「そんなことを聞いておりません、(仏教の)大道のことです」「大道なら長安に通じているぞ」。

 このおやじ耄碌(もうろく)したか、と思うかも知れませんが、禅ではこの手の話がごろごろしています。とり方によって意味は二つに分かれます。一つは表面の意味で、すべての大道は長安になぞらえた本来のあり方に通じることを示すもので、「すべての道はローマに通ず」に類似します。

 もう一つは、弟子の質問をはぐらかしつつ、この今の自らの現実をおいて別に仏道があるわけではないことを示したものです。道は自分で歩むものなのでした。

出典:『碧巌録』

僧問う、如何なるか是れ道。州云く、墻外底。僧云く、這箇の道を問わず、大道を問う。州云く、大道、長安に透る。

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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