今月の禅語

2019.8.1
其の二
無功徳 むくどく

結果を求めちゃいけません。

 見返りなんてない。良いことをしたら、それを誰かに知ってもらいたい、褒められたい、褒美が欲しい。私たちはついこのように期待してしまいます。「私はこんなに懸命にやっているのに、どうしてわかってもらえないの?」という思いをすることがありますが、しかし、それは見返りを求めているのと大差ないのではないでしょうか。

 インドから禅を伝えるために中国に渡った達磨大師が、梁国の皇帝・武帝に謁見した時のことです。武帝は達磨大師に会うや「私は寺を造り、人を出家させ、お経を写し、仏像を鋳造しましたが、さてどのような功徳があるでしょう」と訪ねられました。そこで、達磨大師がお答えになられたのが「無功徳」という言葉でした。

 功徳というものは、本当はその行為の瞬間にすでに報われているのです。もっと褒めてもらおうと思っても、そこにはもう功徳(ご褒美)なんて存在しません。今日一日元気に無事に生きられる以上に、なにが欲しいのでしょうか。

出典:『碧巌録』第一則
達磨、初めて武帝に見えしとき、帝問う、朕、寺を起て僧を度す。何の功徳か有る。磨云く、功徳無し。

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この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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