今月の禅語

2022.9.1
其の三八
十字街頭破草履 じゅうじがいとうのはそうあい

街のどまん中を破れた草履で歩く。道を極めるためには、格好なんて気にするな。

 街の中に、旅の修行者が立っています。足は泥にまみれ、履いているわらじもすり切れてやぶれています。托鉢(たくはつ)、行脚(あんぎゃ)をしつづけて、繁華街の真ん中でボロボロの格好。おそらく他の通行人は怪訝な顔で通り過ぎるのでしょう。あるいは見向きもしないのでしょうが、本人はちっとも気にしていません。

 仏法をきわめたい。本当の幸せとは何か。生きるとはどういうことか。道をきわめようとする人にとって、むしろ虚飾は不要です。

 「破草履(はそうあい)」とは文字通り破れたわらじ、もはや役に立たないおんぼろです。わらじを履いて旅から旅へ、苦労して歩き回る。ぼろぼろになるにはぼろぼろになる過程というものがあります。その過程こそが大事なのであり、苦労をせずに真理に至ることはないのでしょう。私たちは尊いもの、聖なるものを求めようとしがちですが、美しい真理ばかりにとらわれても道を誤ります。ぶざまな姿を恐れてはなりません。

 

出典:『楚石梵琦禅師語録』

上堂。如来の涅槃心、祖師の正法眼。衲僧奇特の事、知識解脱の門。総に是れ十字街頭破草履。

 

 

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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