今月の禅語

私の神通力は、水を汲み、柴を運ぶということでございます。
中国の唐代、龐居士(ほうこじ)が師の石頭希遷(せきとうきせん)禅師の「普段の心境はどのようだ」という問いに答えたものの一部です。
厳しい修行をすると、何かしら不思議なパワーが身につくのでは、と思うことがあります。お経にはそんなことも書いてあるからです。でも残念ながらほとんどの場合、それは誤解であり錯覚に過ぎません。
では神通妙用(じんずうみょうゆう)、不思議な力とそのはたらき、とは何なのでしょうか。それは悟りを得て手に入れる境地だ、と説かれます。そして実は神通や妙用といっても日常生活と何も変わらない、それをありのままに受け入れることができる心なのだと。
仕事に追われる日常生活にどのように立ち向かうのか、その心がけの中にこそ本当の神通や妙用があるのです。師匠から「この頃はどうだ」と聞かれ、龐居士は詩で応えます、「神通ならびに妙用、水を荷(にな)い、また柴を搬(はこ)ぶ」と。
神通力や不可思議な作用というもの、それは水を汲み、柴を運ぶという日常の一挙手一投足に他ならないのです。
出典:『龐居士語録』
日用の事は別無し、唯だ吾れ自ら偶諧なるのみ。頭頭取捨に非ず、処処張乖没し。朱紫誰か号を為す。丘山点埃を絶す。神通並びに妙用、水を運んでまた柴を運ぶ。
この連載について
禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。
禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。
「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。
ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。
「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学
禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
☎0855-42-0830(隆興寺) mail:Seki56old@iwamicatv.jp
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