今月の禅語

十年もの間、旅を続けて歩み続けてきたら、ついに帰る道を忘れてしまった。さーてどっちへ…
浦島太郎のような修行者がいます。苦労して竜宮城にたどり着き、そこで乙姫に玉手箱をもらって帰ってきたはいいけれど、来た道を忘れてしまったようです。「おれはどこからここまでやってきたのか。道が分からなくなった。誰か知らんかね」と問うています。
一所懸命に修行をして悟りを開いてみれば、もう元の家に帰ることを忘れてしまった。いろいろ凡俗な心を起こして迷っていた、その迷いの最中で悟りを開いてみたら、もう凡俗な心を起こすことを忘れてしまったということです。
十年も帰ることができなかったので、来た道を忘れてしまった。長い間の隠遁生活のために来た道を忘れた、という意味から転じて、修行をして悟りを自分のものにした者が、そこまでの過程をすべて忘れ去ることを示します。禅の世界では「向上(こうじょう)」といいます。ここまで来なければ本物ではない。修行の跡や悟り臭さが消えたところ、忘れ忘れてはじめて本当の心の安らぎが得られるのでしょう。
出典:『寒山詩』
安身の処を得んと欲せば、寒山長く保つべし。微風幽松を吹く、近く聴けば声愈よいよ好し。下に斑白の人有り、喃喃として黄老を読む。十年帰ることを得ず、来たりし時の道を忘却す。
この連載について
禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。
禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。
「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。
ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。
「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学
禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
☎0855-42-0830(隆興寺) mail:Seki56old@iwamicatv.jp
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山花開似錦 澗水湛如藍
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採菊東籬下 悠然見南山
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風定花猶落 鳥鳴山更幽
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一華開五葉 結果自然成
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直指人心 見性成仏
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教外別傳 不立文字
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諸悪莫作 衆善奉行
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心外無法 満目青山
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金屑雖貴 落眼成翳
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龍吟雲起 虎嘯風生
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潜行蜜用 如愚如魯
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從門入者 不是家珍
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好雪片片 不落別處
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入鄽垂手 爲人度生
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四十九年 一字不説
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銀碗盛雪 明月藏鷺
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如撃石火 似閃電光
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鞍上無人 鞍下無馬
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萬法帰一 一亦不守
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天上天下 唯我独尊
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至道無難 唯嫌揀擇
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劍去刻舟 守株待兎
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應無所住 而生其心
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一日不作一日不食
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張公喫酒李公醉
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一葉落知天下秋
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十字街頭破草履
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朝聞道夕死可也
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説似一物即不中
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明歴々露堂々
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空手來空手去
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瞋拳不打笑面
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山花咲野鳥語
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吾道一以貫之
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日々是好日
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平常心是道
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一鏃破三關
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壺中日月長
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大道透長安
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獨坐大雄峯
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好事不如無
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歩歩清風起
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把手共行
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己事究明
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安心立命
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行住坐臥
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不易流行
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灰頭土面
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啐啄同時
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且坐喫茶
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一期一會
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行雲流水
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拈華微笑
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廓然無聖
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冷暖自知
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光陰可惜
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賓主互換
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活潑潑地
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眼横鼻直
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照顧脚下
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主人公
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莫妄想
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無功徳
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没蹤跡