今月の禅語

2025.8.31
其の六九
青山元不動 白雲自去來 せいざんもとふどう はくうんおのずからきょらいす

 山はもとより動かない。その上を白雲は片々と飛んでいる。どっしり構えていれば、環境に振り回されることはありません。

 雨が降ると遠方の山がかすんで見えなくなってしまいます。しかし、雨が晴れ、雲が去るとそこにまたもとの姿をあらわします。雨や雲に隠れてただ見えなくなっただけで、山はそこに厳然としてあるのです。しかも、雨上がりの山はいっそう青々と美しく眺められます。

 迷いの雲が全然ない状態で生きるのは、難しいことです。不動なる本心の山の上に、うれしい、悲しい、かわいい、憎い、という人間の感情の雲を湧き起こします。しかし、山の本質は変わっていません。それに執着(しゅうじゃく)せずに過ごしていると、いつの間にか消えてゆきます。

 これが「白雲自ずから去来す」の心境だと思います。迷いの雲がまったくないわけではありません。むしろその雲は風情です。何も雲がないよりも、雲がかかることによって景色が一層よろしくなるような在り方、しかも本心を見失わないような豊かな生き方をしてゆきたいですね。

出典:『五燈会元』巻四「福州霊雲志勤禅師」条

僧問う、如何んが生老病死を出離することを得ん。師曰く、青山元不動、浮雲の去来するに任す。

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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