今月の禅語

2020.7.1
其の十三
行雲流水 こううんりゅうすい

雲が行くように、水が流れるように、立ち止まらずにさらさらと。

 行く雲と流れる水。雲はなんのはからいもなく、ただ無心に漂い、水はなんの滞りもなく、ただ絶えず流れます。執着(しゅうじゃく)のない、自由自在な心境とは、このようなものでしょう。大いなる自然の摂理を淡々とした情景描写の中に語ったものと捉えてもいいでしょう。

 禅の修行者のことを「雲水」と呼びますが、それは飄々と行く雲や流れる水のように一カ所にとどまらず(一所不住=いっしょふじゅう)、諸国を気のおもむくままに漂泊し、あるいは師を求めて旅をする行雲流水の姿からきています。寒山(かんざん)や拾得(じっとく)とならび称された豊干(ぶかん)の詩に「一身は雲水の如し、悠々と去来に任す」とあります。肩肘を張らず、縁に随い流れに任せる生き方は、自由自在そのものです。人生、どんなに良いことがあっても、どんなに悪いことがあっても、後ろを振り返らずに行き、流れていきたいものです。

出典:『槐安国語』巻四

若し是れ正法眼蔵ならば、伏して乞う和尚、挙揚することを休めよ。行雲流水、墜葉飛花、君が為に挙揚すること久し。

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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