今月の禅語

2021.3.1
其の二一
己事究明 こじきゅうめい

私って何だろう?何だろう?

 己(おのれ)の事を究めつくして明らかにすること。曹洞禅では「箇事究明(こじきゅうめい)」ですが、臨済禅では「己事究明(こじきゅうめい)」を使います。

 仏教や禅の修行で大切なことは、まず自分の心をしっかりと見つめるというところにあります。そして、それをいつも心にとどめておきながら日常を生きるということが大事となります。この「己の事」とは「己の心」ともいえます。では、私たちが己の心を強く意識する時は一体どういう時でしょうか。それは、心が苦しみや悲しみで一杯の時ではないでしょうか。うれしい時や気持ちのいい時というのは、思い出には残っても大して心に残っていないことが多いです。つまり、生きてゆく中で、苦しくて辛い時こそ己を感じ、それをどうにか克服できるようにと願うのです。これこそが仏道修行であり、「己の事を究明する」ということなのです。そして、自分の心の苦しみが分かるからこそ、他人の苦しみも理解することができ、「一切衆生(しゅじょう)が救われますように」という願いも出てくるのです。この禅語は、禅を象徴するような言葉です。

 今、ここに生きている自分とは何だろう!何だろう!

出典:『興禅大燈国師遺誡』

野外に綿蕝し、一把茅底、折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過ごすとも、専一に己事を究明する底は、老僧と日日相見報恩底の人なり。

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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