今月の禅語

2019.7.1
其の一
没蹤跡 もっしょうせき

跡形をとどめない。こだわりも無く生きましょう。

 鳥が飛び去った跡は空中に残りません。ほんの一瞬水面に跡が残っても、すぐに消え去ります。「立つ鳥、跡を濁さず」とは、立ち去る者はそのあとを見苦しくないようにすべきという意味ですね。禅の世界では、過ぎ去ったことにまったくとらわれず、言葉や行為の痕跡をあとにとどめないありさまをいいます。

 生きた証を残したいですね。たとえ世間を驚かせるような偉業を打ち立てることは無理だとしても、ささやかでいいから、ああこんな人がいたのだと、いつか誰かが思ってくれるような。

 自分の影響を周囲に及ぼし、後世にその足跡を残すこと自体は必ずしも悪いことではないでしょう。しかし、もしも自分の業績を誇ったり他人に自分を誇示するために仕事や生活をしたならば、やはりいまだ欲望を離れていないことになります。

 私たちは、いつまでも同じ所にとどまり続けることはできません。ならば、後ろを振り返らない。ただ、「今、ここを生きる」ことがすべて。まことに爽やかな心境です。

出典:『虚堂録』巻五
船子、夾山に嘱すらく、「汝、向後、直に須く身を蔵す処、没蹤跡なるべし」と。

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この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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