今月の禅語

2021.11.7
其の二八
一鏃破三關 いちぞく さんかんをやぶる

ちょっとした覚悟と工夫で難関もあっけなく通り抜けます。

 一本の矢で鹿の群を全部射倒すことができますか。そんなことできるわけがない、というのは常識の人です。禅の世界ではそれができると言います。どうするのでしょうか。

 簡単に言いますと、弓も矢も捨ててしまえばいいのです。簡単すぎましたか。

 さて、同じような言葉、一本の矢で三重の関門を射抜く、とはどういうことでしょうか。

 人の真のあり方を求めても、それは何重もの煩悩や関門に取り囲まれたごとくで、何一つ思い通りになりません。その難関を一挙に突き破る、という力強い表現で、禅の奥義を示しています。

 「三関」は三つの関門。いくつもの難関の意味です。それを打ち破るには矢を、つまり標的を自分の心に向ければいいのです。そうすれば難関は一挙に消え去ってしまうのです。

 仏だの凡夫だの、悟りだの迷いだの、全部とっぱらって、ただ信ずる道を真っ直ぐに突き進む。その瞬間、目指すべき到達点は足元にあります。

出典:『碧巌録』第五六則

良禅客、欽山に問う、一鏃もて三関を破る時、如何。山云く、関中の主を放出し看よ。

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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