今月の禅語

2022.5.1
其の三四
空手來空手去 くうしゅにしてきたり くうしゅにしてさる

私たちは何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいきます。自分のものは何一つありません。

 人間いつかはこの世を去る日がくるものです。空に浮かんで天に昇っていくのは亡くなった方でしょうか。おや、一人、大きなカバンをむりやり持って行こうとしている方がいますが、うまくいかないようです。

 考えてみると、私たちは生まれる時、何も持っていませんでした。裸のまま生まれました。成長するにしたがって何着も服が欲しいと思うようになり、よりよき家、よりよき名声、財産が欲しいと思うようになりました。しかしながら死ぬ時にはそれらの一つとして持っていくことはできません。

 生まれた時は手ぶら。死ぬ時も手ぶら。当たり前のことなのですが、つい忘れがちです。途中で何を得ようとも、それらはあだ花、空しいことに変わりはありません。ものにとらわれずさっぱりと、無心にして執着(しゅうじゃく)しない生き方をしてみたいものです。「物もたぬ たもとは軽し 夕涼み」。そう思って、得ては捨て、得ては捨て、軽やかに生きてゆきましょう。

出典:『虚堂録』巻四

古徳道く、達磨大師、空手にして来たり、空手にして去る。己に是れ塵を挙げ土を簸いて、曲を今時の為にす。

 

 

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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