今月の禅語

2022.7.5
其の三六
説似一物即不中 せつじいちもつ そくふちゅう

言ったそばからまちがいだ。緑色?茶色?和尚さんも目を白黒!!

 「一物を説似せんに即ち中(あた)らず」。何かを言おうとしても、それはそのものではありません。言葉では物事のありのままの姿や真理を表現し尽くすことはできないということです。

 南岳懐奘(なんがくえじょう)禅師が六祖慧能(ろくそえのう)大師に見(まみ)えた時、「何者がそのようにやってきたのか」と聞かれてとっさに答えた言葉です。自分の正体を問われた時、名を名乗っても職業や経歴を告げても、それは自分自身をあらわにしたことにはなりません。それどころか、どんな表現を用いてもそれは本来の自分とは別の、せいぜい自分が所有している付属物に過ぎないことに気がつきます。

 このことはあらゆる事柄にも当てはまります。私たちは言葉を使っては決して自分のみならずこの世界の真実を説明し尽くすことはできません。そうした現実の中で本来の自分を確認させようとするのが禅の大きな目的の一つであり、言語によらない表現や心理の伝達方法を用いる理由はそこにあります。

 

出典:『六祖壇経』

師(六祖慧能)曰く、甚れの処より来たる。(南岳懐奘)曰く、嵩山。師曰く、什麽物か恁麽に来たる。曰く、一物を説似せんに即ち中らず。

 

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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