今月の禅語

2024.7.11
其の五七
心外無法 満目青山 しんげむほう まんもくせいざん

心の外に法はありません。見るもの、聞くもの、すべて自分と受け取っていく。

 同じ風景を見ても、それをうれしく思う人もいれば、悲しく思う人もいます。すべての存在は、心の外にはありません。すべての事象は、心のはたらきによって様々な姿形をもって現れていますから、心を離れて存在するものは何もありません。すべて心が生み出しています。

 見渡す限りの青い山もわが心にほかなりません。目に一杯、耳に一杯。見るもの、聞くもの、すべてわが心と受け取ってゆくことができれば、そのまま仏様になることができます。お釈迦様が、「今この三界はみんな我が家であり、その中に住む行きとし生けるものはみんな我が子である」とおっしゃった慈悲の心は、「心の外に法は無し」、つまりわが心と外境が二つでない(不二 ふに)、一つである(一如 いちにょ)という境地から生まれます。目の前の世界そのまま慈しんで生きていく。それもまた「心外無法、満目青山」です。

出典:『景徳伝燈録』巻二五「天台山徳韶国師」条

師、偈有って衆に示して曰く、通玄峰頂、是れ人間にあらず。心外無法、満目青山。

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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