今月の禅語

2025.11.30
其の七二
行到水窮處 坐看雲起時 ゆいてはいたるみずのきわまるところ ざしてはみるくものおこるとき

 川の流れに沿っていくと、水源にたどり着いた。そこに坐って、谷間から雲がわき上がってくるのをながめている。

 王維(おうい)の「終南別業(しゅうなんべつぎょう)」と題する五言律詩の第五句と第六句にあたります。

 政治家・詩人として名を馳せた王維は中年以降、政治の世界の煩わしさから、都の郊外、終南山に別荘を建てて、そこに隠れて住むようになりました。その生活は悠々自適で、ぶらぶらと川の水源まで散歩してみたり、雲が湧き起こって流れるのを眺めたり、ある時は出会った人と談笑して、帰るのを忘れるほどであったといいます。

 禅語としては自分の生き方の問題と捉えます。人生いかに生きるべきか。「行いては到る水の窮まる処」、ひとたび行くと決めたら、川の上流を目指し、途中であきらめずに水源に着くまで歩み続ける。「坐しては看る雲の起こる時」、ひとたび坐ると決めたら、雲が山から湧き起こる瞬間を見極めるまで、自分の心の中に仏様がおられることを見極めるまで坐り続ける。

 迷わずまっすぐ、信じた道をひたすらに。一度きりの人生、徹底して一つの道をきわめて生きましょう。

出典:王維「終南別業」

中歳頗る道を好み、晩に家す南山の陲。興じ来たれば毎に独り往き、勝事空しく自ら知りぬ。行いては到る水の窮まる処、坐しては看る雲の起こる時。偶然、林叟に値い、談笑して還る期無し。

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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