今月の禅語

2021.4.10
其の二二
把手共行 はしゅきょうこう

さあさあ、手に手をとって共にこの世を歩んでいきましょう。

 子どもたちが手をつないで遊んでいます。おや、向こう側にいるのは達磨さんでしょうか。

 己事究明(二一参照)のように、坐禅をして静かに坐って自分を見つめることは禅の修行の大きな柱ですが、それがゴールではありません。

 自分を見つめ、自分が心の安らぎを得られたらそれで良いのではなく、実はそこからが大事なのです。自らが立派な着物を着て、自分は悩み苦しみのない高い所にいながら迷える人たちを救って行こうとするのは、不遜なことです。高い所から手を差し伸べても、悩んでいる人の心には届きません。それでは人はついてきてくれないでしょう。

 この達磨さんのように、同じ所に立って、同じ目線でみんなで手をとりあって生きる。生まれては老い、病にかかり、やがて旅立っていく世の中を、共に喜び、共に悲しんでゆく。そこにこそ、禅の大切な道があります。

出典:『無門関』第一則

無門曰く、参禅は須らく祖師の関を透るべし、妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す(中略)透得過するものは但だ親しく趙州に見ゆるのみにあらず。便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛、廝い結んで、同一眼に見、同一耳に聞くべし。

 

 

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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