今月の禅語

2022.4.2
其の三三
瞋拳不打笑面 しんけんしょうめんをたせず

怒りに任せて拳をあげても、無邪気な笑顔をみるとたたけません。ま、いいか。

 子どもたちは何のはからいもなく、天真爛漫に無心で遊びます。こんなことをしたら服が汚れちゃう、そんなことはこれっぽっちも考えたりしません。蓋天蓋地(がいてんがいち)、徹底して遊び三昧に入ります。泥だらけになって土団子をつくり、お母さんに見てもらおうとそこら中を汚しながら家に上がり込んで、満面の笑みを浮かべて団子を見せる子どもたち。其の純粋無垢な笑顔を前にしては、お母さんも怒りの拳をふりおろすことはできません。はからいのない純粋な笑顔にかなうものはないようです。

 「瞋拳(しんけん)、笑面(しょうめん)を打(た)せず」。大人になっても純粋な気持ちで人に接したいものです。きっと相手に通じ、よりよき人間関係を築くことができるでしょう。

 また、少し角度を変えるとこの句の、「笑面」は崇高な教え、「瞋拳」は凡人の振るまいにもたとえられます。崇高な教え、超越的な真理に対して凡人が拳をあげて挑んでも届かない、どこにもよりつく隙がない、という意味にも解釈されるのです。

出典:『五燈会元』巻一五「泉州雲台因禅師」条

僧問う、如何なるか是れ和尚の家風。師曰く、瞋拳、笑面を打せず。

この連載について

 禅語とは禅の教えを端的に示した言葉です。悟りの境地を示していたり、修行者を悟りに導いたりするために用いられてきました。仏のこころはお釈迦さまから弟子へと、器の水を残さず次の器に移すが如く連綿と受け継がれていき、28代目の達磨大師により坐禅を仏道修行の中心に据えて、インドから中国に伝えられたとされています。

 禅語には禅僧が自身の悟りの境地を示したもののほかに、仏教経典、中国古典、詩文集等の様々な文献からも引用されています。今日では、床の間に掛けられた掛軸(墨蹟)に書かれた言葉として目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

 「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字は全てを表現できず、文字で表現し尽せないところに伝えるべき核心がある)」という禅の家風もあり、禅語はその字義だけを考えても意味の分からないものもあります。禅仏教では自身の実践を重視しますが、禅語の紹介を通して皆様自身が字義の奥に潜む本当の意味、祖師方が伝えんとしてきたものを感じて頂けると幸いです。

 ここでは禅的教育研究グループ「じだんだ」の発行した「禅語カルタ百句」を紹介していきます。「禅語カルタ百句」は難解なイメージを持たれがちな禅語に如何にして親しんで貰うかというテーマのもとに製作されたカルタです。イラストが理解の助けとなり、禅語に触れる第一歩として適したものとなっております。じだんだ代表の柳楽一学師の許可を得てここに掲載してまいりますが、「禅語カルタ百句」にご興味の方は下記までご連絡願います。

 「とっつきにくい禅語に入っていく開かれた門となれば幸いです」柳楽一学

禅的教育研究グループ「じだんだ」 代表:柳楽一学
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